ヨガはしてみたい。でも…。
どうしてもヨガとは美を意識する女性がするものだとか、身体が柔らかい人がするものだとか。
あとベジタリアンにならなきゃいけないとか。笑
食に関してはまたいつかゆっくりと。
全然、そんなことはないのに。
ヨガは結構誤解されやすい。
いちばんよく言われるのは、
「身体がすごく硬いから…」
そりゃ、そうだ。だって今までヨガしてないんだもの。
なんだって使っていなければ、硬くもなるし、衰えてもくる。
自分の身体のことを本当に知っている人なんて実はほとんどいなくて、使える筋肉のほんの数パーセントしか使わずに人は生きている。
残りの使っていないところは次第に硬く、弱っていく。
スポーツをしている人は、そのスポーツで使う筋肉はいろいろな形で発達するけれど、それは逆に偏った発達の仕方をすることもある。
使いづらい筋肉を使いやすい筋肉で補ってしまったり。
そうなれば、やはり硬くなり、怪我しやすいなんてことにもなり得る。
ヨガにもよるけど、ヨガはそんなあらゆる身体の使い方をバランスよく教えてくれるものだと思う。
今はこうしてヨガをしながらサーフィンやスノーボードやロッククライミング、山登りと共に生きているけれど、かつての僕は全く逆だった。
スポーツもほとんどしない。
アウトドアなんてもってのほか。
体育の授業で僕より硬い人を見たことがないし、そもそも今より20キロ太っていた。笑
電車でももうちょっとで滑り落ちるんじゃないかとゆうような格好で座り、骨もだいぶ歪んでいたのだと思う。
ヨガを始めて、あらゆる部分が師匠もビックリするほど硬いことや、歪んでいることを知った。
今でもよく言われるけれど、あなたのこの筋肉は酷く硬いし、酷く曲がっている。こんなの今まで見たことないわ!と言われることも。
でもそうだと思う。かつての生活と姿勢はそりゃ酷いものだったから。
でも、その硬さのおかげで、ちょっと身体が変わればすぐにその変化に気づくことができた。
その微妙な変化はとてつもない身体の知識となる。
まだまだ硬さがこれだけ残っているのだから、まだ知らぬ身体の知識はこの身体にたくさん眠っている。
硬さは知識の源なのだ。
石のように暗く硬い何かが、身体のなかで朝日を浴びた水しぶきのように解放される。
僕はそんな風に感じながら、日々硬くなった身体や意識に目を向ける。
それが完全に解放されるのにどれだけの年月がかかるのか分からないけれど、完全に解放される事なんて正直どっちでもいい。少しずつ少しずつのその過程が知識なのだから。
今でもなかなか解放されない筋肉はたくさんあるし、そこを何年も前から少しずつ少しずつ、あと5年10年かけて変わっていったらいいかなと思ってのんびり焦らず練習している。
実は硬い事もそうだけれど、柔らかすぎることも同じ事。
本来使わなければいけない筋肉が緩みすぎているのならば、少しずつ少しずつ今まで意識していなかった筋肉を育てていかないと。
どんな人にも必ず形は違えど知識の源が身体の中にたくさん眠っている。
硬い=悪い
ってのは勿体無い考え。
硬いだけではない。身体に宿る全ての出来事は知識を与えるためのメッセージ。
痛みだったり、重さだったり。
以前も書いたけれど、どんな状態であれ今の自分は完全に満たされている。
そのメッセージに目を向けるか向けないか。ただそれだけ。
あの硬さが無ければ得られなかった知識が僕の中ではたくさん今を輝かせてくれている。
だから、あのだらしない日々にも心から感謝している。
あの20キロの脂肪にも。
もういらないけど。
