立つ場所で見える景色は変わる。

久しぶりにブログを書きたくなったので本当に久しぶりの更新をしたいと思います。

インドに戻ってきて1ヶ月。
今、僕はインドのマイソールにあるアシュタンガヨガのいわば総本山KPJAYI(http://kpjayi.org)にて練習をしています。

僕はこのアシュタンガヨガを伝統的なスタイルで練習し始めてから、ずっとインドのゴアという土地で僕の師匠であるRolfとMarciと共に練習をしてきた。
他の先生の元に就いたことはない。

それが今年の3月。ゴアでのシャラ(練習場)がオープンしないこともあり、初めてこのマイソールでの練習を始めることになった。
その時はひと月だけマイソールに滞在し、今回の2回目のマイソールは12月までの3ヶ月間滞在する予定だ。

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屋上から夕日を眺めるのが日課

話は少し飛んでしまうが、
僕らはさまざまな物事を自分の経験や知識によって一方向から見る癖がついてしまっている。
その自分の経験や知識というフィルターを通すことによって自分なりの解釈をしてしまう。
他人の言葉でさえも一度自分のフィルターを通して、取り入れるか取り入れないか判断していたり。
それはもちろん正しいこともあるが、たいていは本来の意味が正しく見えず、良いや悪い。好きや嫌いといったように自分なりの識別をしてしまうことが多い。

ある人を、この人はいい人だ。と褒める人もいれば、
いいや、あの人は嫌な人だ。と嫌う人もいる。
対象は同じなのに識別する人の目には別のものが映っているようにみえてしまう。
お互いに正しい識別ができれば対象は同じに見えるはずなのに。

きっとこの人はいい人でもなければ、嫌な人でもないのだろう。その人はその人なだけだ。
良いも悪いも上も下も右も左もない。自分のフィルターを通した時にそれが出てくるだけ。

そんな物事の本質を知り、正しい識別によって見えるこの美しい世界をもっと見たくて僕はヨガを練習している。
そのツールとしてアシュタンガヨガを僕は選んだ。

ただ、そのツールとして選んだアシュタンガヨガを僕は一方向からしか見たことがなかったのだ。

今までも練習や知識が間違っていたというわけでは全くない。
むしろ全て合っている。RolfとMarciから学んだことは本当に美しく輝いている。
このマイソール滞在後はまたゴアでの練習に参加するし、ゴアにはこれからも通い続ける。
ただ、一方向からしか見ていなかったために全体の一部分しか見えておらず、そこで見てきたものがアシュタンガヨガだと信じてきた。

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1年目のインド。with Rolf & Marci

今年からこのマイソールで練習する機会を与えてもらい、また全然違う角度から僕はアシュタンガヨガを見ている。
それはそれは本当に楽しく素晴らしい経験と気づきの毎日だ。

アーサナが綺麗にできるようになったとか、ポーズがたくさん進んだとかそんな話ではない。

ここマイソールの師Sharathはカンファレンスと呼ばれる講義の場で、多くの師を持つべきではない。多くの師を持てば困惑が生じる。持つべき師はひとりだ、と言う。(たぶん。僕の英語が合っていれば。)

正にそうだ。あの先生はこう言うからこうしてみよう。別の先生はこうしたほうが良いというからこれも試してみよう。
言葉に流され本質が見えないまま次へ次へと流されればきっと理解はどんどんと遠のいていくだろう。

どんな教えであろうとも、まずは一人の師からの教えを重く強固に自分のものとして理解することが大切なのだと思う。
もし次の教えに触れたいのであれば、それからだ。

次の教えに触れたとしても本当の師はひとりなのだろう。
他の師からの知識を使い、自分のただひとりの師をまた深く見る。

そう。本質はひとつなのだ。
それぞれの師はその本質を自分から見た一片の視点から伝えてくれる。
その一片が幅広く深い人もいれば、狭い人もいる。

僕らはその師を通して伝わる知識体に触れているのだ。

あの先生の言っていることはおかしいや、間違っているというものではなく、知識体を見ている角度や方向や幅が違うだけで、だれも間違いではないのだろう。

ありがたいことに、今僕が練習をさせてもらっているRolfもMarciもSharathも異なった角度から同じアシュタンガヨガを見ているように思える。そしてこの3人は計り知れない一片の幅と深さを持っている。
どれも間違いではないし全てが共通し合っている。

マイソールで練習していると、ゴアでの練習はアシュタンガではないという声を聞くこともあれば、
ゴアにいればマイソールでの身体の使い方は間違いだという声も聞く。

今回深く思ったのは、そうではなく、どれも間違いのないアシュタンガヨガなのだ。
ただ、フォーカスする角度が違うだけで。

結局は今の段階の僕もこの知識体のどれくらいが見えているのかも知ることはできないし、今回思ったことがまた変わる日が来るかもしれない。
その道のりがヨガなのだろう。

どうしてもアーサナを綺麗にできるようになったり、よりたくさんのポーズをもらいたいと思ってしまうこともあったけれど、そんなことは本当にどうでもいいことなのだと今回の1ヶ月では深く感じている。

もちろん正しい理解があれば勝手に進んでいくのだろうけれど、アーサナをたくさんしなくても得られる気づきはまだまだたくさんある。
今までの道のりに取りこぼしていた色々なものをもう一度戻って、ゆっくり拾い集めている感じだ。
たとえその量が少なかったとしても、落としたことにも気づかず先に行ってしまうよりかは僕はいい。
そしてなによりのんびり何か落ちてないかなと探しているこの時間が楽しくて大好きだ。

毎日毎日ひたすら自分の身体とこころと向き合い、身体の声を聞く。
そう。聞くのは師の言葉ではなく、師の言葉を使って聞く身体の声なのだ。

僕の一番の師はこの身体だ。

そんな身体と心に日々祈り、無理なく大切にしてあげることが僕の伝えたい一辺である。

いくら後屈が深くできようができまいが、バンダがうまく使えようが使えまいが、そんなのはどっちでもいい。
そこに健やかで落ち着いた身体と心があるのならば。

ただ、身体を大切にしてあげるのには知っておいたほうがいいことがあるのもまたひとつ。

長々と書き綴ったけれど結局は日々の練習により気づくことが一番。どんな道を通ろうとも。 楽しく気持ち良く。
practice, practice, practice.
and enjoy everything.

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