ナマステ。
ここ数年、色々な場面で、はて?それは本当にそういうことなのだろうか?と考えさせられる場面がよくあります。
一見それは正しいようで、そのように着地していいのかなと思うことが多々あるのです。
思いつきで例えをあげるのであれば、
・子供がいるからアシュタンガの練習はほどほどにできる範囲で。やりたい気持ちに囚われず、今すべき役割をしっかり認識しましょう。
とか
・ヨーガはアーサナではない。練習はするけれど、アーサナに囚われず、先へ進むことを求めず、できる範囲のことをやりましょう。
とか
・勉強はしたいけれど、今は家庭があってそんな時間を作れないから聖典と向き合うことは置いています。子育てこそが学びなのでそれで十分です。
とか
ざっと頭に浮かんだのはヨーガのこととか、自分でもこの数年自問自答してきたこととかですが、ヨーガだけに限らず、様々なシチュエーションで起こっている思考のパターンなのかなとも。
少しネガティブにいうのであれば、「しょうがないよね。だって〜だから。」という言葉で片付けてしまいがちなシチュエーション。
僕はしょうがないという考えは好きではないので、本当にその選択以外の選択がないのであれば、そりゃこうあるべきだよなと理解しますが、それに至るまでにすべての可能性を模索するくらいの気持ちで生きています。
上で言ったような例えは正しいと思うし、そうあるべきだとも思っています。
でもその形は一つじゃないのかなと。
その時その時で常に形は変わるはず。
数年前、数週間前はそれがベストの選択だったかもしれませんが、果たして時間が経過した今も同じなのでしょうか?
ヨーガをしていると執着を手放すことが大切なことをみんな知っているし、そうあるべきです。
でもその考えの時、「執着」と「意欲」を混同してしまって同時に手放してしまっていないでしょうか?
執着は手放すべきです。でも、意欲は手放してはなりません。
一緒に意欲を手放してしまって、ただ今を受け入れたように思って。
でもその”今”はいずれかつての”今”となるわけで。
常に”今”を受け入れるには意欲を失わず、常に持ち続けるってことが大切なのかなと。
僕は隙あらばあらゆるチャンスを狙いまくって自分にできることを徹底的にやりたいと思っております。
なので、練習も執着はしていないけど、隙あらば全力で取り組めるチャンスをこのインドでも虎視眈々と狙っています。
もちろん社会や環境に対して自分が貢献できることも。
やりたいことは全部やった方がいい。今世でできないことはあるかもしれないけれど。
でも、まだ全部できる可能性を信じて。
その時を待つのではなく、その時を逃さぬよう狙っている。
何年後か、何十年後かわからないけれど。
それでもできないことは、自分にとってない方がよかったってことですよね。
もう一度、執着と共に意欲を手放してはないか、ゴミ箱を漁って見返してみてもいいかもしれないですね。
