KUO GREEN VILLAGE YOGA RETREAT 2024

ナマステ。 今年もゴールデンウィークは僕の住むリトリートヴィレッジでヨーガリトリートを開催します。 会場となるヨーガヴィレッジは徳島県海陽町の山の一番奥。 『KUO GREEN VILLAGE』 使われなくなった古民家を活用した、古民家宿や古民家カフェ。 耕作放棄地を活用した、無農薬の米づくりや野菜づくり。 この春のリトリート期間中にはちょうど無農薬のお茶作りの季節でもあります。 みんなで田んぼや畑、茶摘みなんかもできたら嬉しいですね。 何より、このヨーガヴィレッジは川の音と鳥の声しかしない静かな山の中。 そこに流れる蒼く輝く美しい川。 飲料水やお風呂の水は全て山の湧水。 桃源郷と呼ばれる小さな村にぜひ遊びにきてください。 宿泊は男性棟と女性棟に別れて2棟ご用意しております。 各宿泊棟では共同生活になります。 もちろん、ちゃんと宿泊用としての場所ではありますが、まだまだ完全には整った環境ではありません。 多少の不便や田舎暮らしを楽しめる方、この村を一緒に作っていきたい方、ぜひお待ちしております。 自由時間もたくさんありますので、カフェのネットを利用してお仕事をしたい方などの参加も可能です。 ヨーガ未経験の方もお気軽にご参加ください。いつもここでヨーガを始めるという方も多いです。 どなたでもご参加ください。 何にもないのに、何でもある。 そんな豊かさに触れにきてください。 僕が伝えたいヨーガの世界の村 KUO GREEN VILLAGE 今年もお待ちしております。 【日程】 2024年4月27日〜5月6日 ●もちろん1泊からの参加可能です。せっかく遠くまで来てもらうので、もし可能なら2泊以上をお勧めいたします。 【定員】 10名/日 【デイリースケジュール】 15:00〜 ワークショップ17:30〜 夕食〜Free Time〜翌5:30〜 マイソールクラス    9:30〜 朝食〜Free Time〜 【料金】ドネーション制 ※必ず参加の際はドネーションについてのブログをお読みください。https://doniyoga.com/2024/03/23/donation-2 【問い合わせ・予約】doniashtanga@gmail.com

Online Mysore について。

ありがたいことに度々オンラインマイソールの開催を望んでくださる声をいただいたことをきっかけに、オンラインについて考えるようになりました。 僕はみなさんが気軽に来れるような場所で指導しているわけでもないですし、頻繁にクラスを開催するわけでもない。 クラスでお伝えすることも、継続しないとなかなか落とし込めないようなこともたくさん。 なのに、継続して見させてもらう場がないことは無責任のようにも感じておりました。 なので、インド帰国を機にオンラインマイソールを開催することにしました。 リトリートヴィレッジに人が来られていたり、その他日々の活動の中でオンラインクラスを開催できるのは不規則な日程になってしまうと思われます。 事前に開催日をお知らせいたしますので、参加できる日にぜひご参加ください。 僕にとってはオンラインクラスは未知の世界ですので、不慣れなことばかりでしょうがまずはやってみなければということで始動してみたいと思います。 よろしくお願いします。 ========================= オンラインマイソールクラスについて 【時間】 AM 5:30〜8:00 ※8:00までに終わっていただければ何時にスタートしてもらっても結構です。 【開催日】 HPのschedule(スケジュールページ)、ブログ、ストーリーズで事前(毎週木曜日予定)に告知いたします。 ご確認ください。 【参加方法】 doniashtanga@gmail.comまでお申し込みメールを以下の項目を記載の上ご連絡ください。 ・お名前 ・最初の参加希望日 ・痛みの有無や箇所 ・最後のアーサナ ・普段指導を受けている先生(任意) ・その他伝えておきたいこと、聞きたいこと(任意) 【料金】 ドネーション制※必ず参加の際はドネーションについての下記のブログをお読みください。https://doniyoga.com/2024/03/23/donation-2/ ご連絡いただいた方へ参加IDをお送りいたします。 どうぞみなさんお気軽にご参加ください。

ドネーションについて

ヨーガに関する活動を全てドネーションでさせていただいております。 日本における文化ではあまり馴染みがなく、本来インドで受け継がれている認識と大きく違うので改めてドネーションクラスをする意味をここに記させていただきます。 ぜひこちらを読んだ上でクラスにご参加ください。 まず大前提として、ご自身が受け取った経験や知識に対して、ご自身の思う心地の良い金額をお支払いください。 これから記す内容によって、参加しにくくなるなどないようにお願いします。 それを踏まえて、学びの中のドネーションの意味をご一読ください。 日本人の感覚ですと、ドネーションは少額で参加できるクラスと思われたり、寄付はお金をたくさん持っている人がするものと認識されていることが多いようです。 ですが、このヨーガの教えの中では、お金が余っている人だけがするというようなものではありません。 これは学びに対する敬意と人のために一歩踏み出せるかどうか、貢献できるかを自らの意思で決め、選択できるかどうかという、知識を学ぶ上でとても大切な教えの一部だとされています。(ダクシナは学びを完結するために必要不可欠な教えとも言われています。) ダクシナとはヴェーダの教えをされる先生に対するもの。 ドネーションは滞在費や食事代、その他の経験に対する実質的なもの+貢献(その教えが受け継がれるために、より多くの方が触れられるために)と言われています。 我々家族はヴェーダーンタを学び、その教えを元に生活を行なっています。 なるべくその教えに沿った生き方を心掛け、ただそうした暮らしや生き方に触れてもらうという機会をつくっています。 なので、自分のことをヴェーダの先生だとは思っていないので、僕はあまりダクシナという言葉を使うつもりはなく、ドネーションという言葉を使っています。 またドネーションに馴染みがなく、いくら支払えばいいのでしょう?と質問いただきますが、 自分で決めることができない時は、一般的な相場+貢献の気持ちを支払うと良いと言われています。 これは人のために自分がいかに貢献者として喜んでもらえるかという自分の成長のために与えられた機会として考えてもらえればと思います。 それと同時に、もし経済的な理由で学ぶ機会を諦めなければならないというのもあってはならないと言われています。 誰でも学びたい気持ちがあれば受けてもらえたらと思っています。 ですので、ドネーションが自分の気持ちほど払えないとしてもそれは遠慮なくご参加ください。 この教えには金額が多い少ないは全く関係ありません。 その人の立場や学びに対する姿勢なだけですので、お金がなくても学びたいという姿勢を持つ方も同じように学べる機会が用意されています。 多いから特別扱いしたり、少ないからといって何か思うことも受け取る側は全くありません。 最初に記したように、自分が心地のよい金額をご用意ください。 金銭的なドネーションがご用意できない際はお手伝いなどのセーヴァーなどもご相談ください。 教えがより明確になるためにこのような活動を取り入れることにご理解いただければ幸いです。 【ドネーション&ダクシナの使用用途】 みなさまからのドネーション&ダクシナは全てこの教えを学ぶために運営しているヨーガリトリートヴィレッジ(KUO GREEN VILLAGE)での活動費用や現在準備を進めている子供達に健やかに成長してもらうフリースクール(木と森 green school(仮))の運営、環境保全活動、インドのアシュラムへのドネーションに活用させていただきます。 みなさまからのドネーションにより、次に学ぶ方々やこれからを生きる子供達により良い環境や機会を作れるために100%使用させていただきます。 みなさまのドネーションがどのように形になるか見ていただき、長く応援していただけるような活動を続けていきたいと思います。 みなさんの学びがより深まり豊かな日々となりますように。 どうぞこの学びや自然やこどもたちの未来が健全に受け継がれますように。 生きとし生けるものが皆、幸せで自由でありますように。

2024年から全クラスドネーションでの活動に切り替えます。

ナマステ。 数ヶ月前にもストーリーズでお知らせしましたが、2024年からヨーガに関わる活動を基本的には全て(例外については下記で詳しく記載します。)ドネーション開催にすることを決めました。 それは、今まで我々家族が学んできた教えをより大切に扱いたいと思ったことと、より丁寧に伝えたいと常々思っているからです。 僕はインドで学び、見てきた教えをできるだけ体現した生き方をしたいと心掛けてきました。そんな生き方や選択の仕方を見てもらうことが僕のたどり着いた学びの伝え方で、そのためにも我々の暮らしや生き方を見てもらうヨーガリトリートヴィレッジも作りました。 このドネーションという文化や先生に支払うダクシナという文化はとても学び深く、ヨーガやヴェーダの学びを深めるにはとても大切なパートだと考えています。 これは、少額の寄付で誰でも参加できることを意図しているのではなく、自ら”教え”や”恩恵”に価値を定め、そこへ自分の意思でちゃんと対価を支払うというとても重要な学びのひとつなのです。 そして、さらにはその学びが継続し、より多くの方が教えに触れられ恩恵が受けられるよう、貢献者として喜んでもらい自分が成長できる機会としてこのような文化が今も受け継がれています。 もちろん、学びをしたいのに金銭的に余裕がない方は、自分のできる範囲の学びへの対価をお支払いいただくだけでも、我々はとても嬉しく喜んでお伝えいたします。 どうしても、自分という制限の中でお金を保持したり、地位や認知度、遊びや喜びに振り回されてしまいがちです。 自らを小さくしてしまった制限よって、それらを失いたくないや、他人と比べたりで知らぬうちに迷いや悩み、恐れを生んでしまってしまうのです。 そして、その自分の価値観を守りたいがために、都合の良いように教えを解釈し、理解してしまうのです。 もちろん日々の生活を楽しむのは大切なことですが、それがあるのは周りの全ての支えがあることに気づき、本当にそれがそう見えた時、もっと世界の見え方が広く、美しく見えます。 僕が学んできたことは、それまでにこのような文化の中で受け継がれてきたおかげですし、それによってお伝えできること、受け取ってもらえること、それをさらに次へと繋げていけるように。 この教えを大切に扱う姿勢を、我々の選択から一人でも多くの方に伝わり、みなさんの学びが深まればとても嬉しく思います。 ヴェーダを扱う方がより丁寧にこの教えに触れられますように。 僕はただ、ヨーガやこのヴェーダの教えが好きで、恩恵をたくさん受けていて、世界の捉え方が明らかに変わったので、ただそれをシェアしているだけ。 ヨーガの先生でありつづけたいとか、それで生活を豊かになど考えたことなど一度もないわけで。ただ、生きるという基盤にヨーガやヴェーダの教えがあるだけです。 よく日本ではドネーションはうまくいかないという助言を頂きますが、はたしてうまくいくってなんなのでしょうか? それで生計をたてることでしょうか?運営をすることでしょうか? 僕の理解では、自分の学びであり、学ぶ人の貢献の機会である。ただそれだけ。 そこにうまくいく、いかないと言うのは無いように思っています。 どこかお金に引っ張られすぎるあまり、自分の喜びや体験を手放したくないあまり、教えを書き換えてしまっているのではないのでしょうか。 お金を取ることが悪いことなど一切思っていませんが、このヴェーダの文化を扱うのであれば、そこの理解はベジタリアンであるべきと同じくらい重要なパートだと思っています。もちろん、段階はありますからね! 他人のことをどうこうと言いたいのではなく、これは自分の学びのため。 学んできた結果の自然な流れだと思っています。 何度も言うように、これは僕ら自身の更なる学びのためだと思っていますし、この自然な選択がより深い学びへと導いてくれると信じています。 与えることが大切。と皆が口を揃えていうけれど、実際はお金や自分の喜びを集めちゃいますよね。 もしくは1回与えたら、出来たと思っておしまいになってしまったり。 僕のできる限りの貢献をしていく決意をここに。その想いに共感してくれる方が増えたらとても嬉しく思います。 今は子供達が健やかに学べる小学校をつくっています。(2〜3年で開校を目指しています。)同時に、木々や川、海というあらゆる自然を守るためにも環境活動を取り組んでいます。 我々がこうしてあれるのも、全ての地球の恩恵があるわけで、そんな地球も未来の子供達から借りて我々が使わせてもらっているわけで。 そんな活動への応援やこの世界の繋がりが見えている方、見たいと思っている方に応援していただければとても嬉しく励みになると思っています。 これからの未来のために、一緒に学びの場を作っていきましょう。 ご理解いただければ嬉しく思います。 このような決断に、同じ想いを持ってくれていた妻にも敬意を。 Om 【県外でのクラスにお呼びいただく際、主催者の方へ】 クラス内容などは、今までと全く同じ形でお受けさせてもらいます。 今まで通りお気軽にお声がけください。ご希望のクラスを相談し、なんでも僕ができることであればやらせてもらいます。 その際、料金だけはドネーションになります。そこから主催者側の経費や運営費を引いたものを渡してもらう形となります。(交通費、宿泊費もドネーションの中から支払います。) ・ドネーションだと参加しにくいという方の声に対して。ドネーションやダクシナについての説明を開催の際にはお送りいたします。 それを読んでいただければ、どなたでもドネーションやダクシナの意味を理解し、気軽に参加していただけると思います。 【ドネーションクラスで開催できないクラスについて】 ●どこかレンタル施設を使ってのリトリートクラス宿泊費や飲食費でかなりの金額を施設に支払うことになります。確実にかかってしまう金額が大きく、主催者や関係者に負担になることが考えられるリトリートに関しては、今まで通り定められた料金での開催を行うことになると思います。(僕が運営しているリトリートヴィレッジでのリトリートはすべてドネーションで滞在してもらえます。) ●現在行っている、徳島県の田舎地域での1000円のクラス僕が住む徳島の田舎の方で行っているクラスは、ドネーションや500円でやりましょうと言う最初の相談がありましたが、参加者と話し合った結果今の形となったクラスに関しては、今まで通りの金額で開催を継続いたします。

プライベートリトリートについて

KUO GREEN VILLAGEではプライベートリトリートを随時承っております。 YOGA&RETREATKUO GREEN VILLAGEはヨーガや環境、食事のことなど普段の生活から様々な気づきを受け取ってもらう場所として活動しています。 毎年数回ヨーガリトリートをこの地で開催していますが、どうしてもこの遠方まできていただくのにスケジュールが決まっているリトリートは皆さんの都合がいつも合うわけではありません。 ですので、少人数でもそれぞれのスケジュールや希望内容に合わせてプライベートリトリートを開催しております。 お友達とでもご家族とでも(もちろん小さなお子さんがいてもOKです。)少人数から承っておりますので、お気軽にご相談ください。 《KUO GREEN VILLAGEでできること》・宿泊・ヨーガクラス(アーサナ、ワークショップ形式も可)・座学クラス(ヨーガや環境のこと)・菜食レストラン・こども自然学校・季節の自然体験(畑、田んぼ体験、川遊び、山の恵収穫、薪での料理、薪窯ピザ体験)・プライベート川サウナ・藍染体験・海でのアクティビティ(サーフィンレッスン、SUPレッスン) その他なんでもできる限り対応いたしますので、ご相談ください。

ヴィーガンとミツバチ その2

ヴィーガンという言葉は今や珍しい言葉ではなくなった。 一度はみなさんも耳にしたことはあるだろう。 簡単に言えば、生き物をなるべく傷つけないという選択だ。 自分の健康のためというよりかは、自分以外の生き物を傷つけずににできるだけ食物連鎖の下の植物性のものをいただいて生きるというもの。 食生活に目を向けられがちだが、食事だけではなく、ヴィーガンと呼ばれる人々は身につけるものも毛皮や革製品、シルクなども身につけないし、生活用品や化粧品などで動物実験がされているようなものも選ばない。 意外と知られていないのかもしれないが、動物実験の後商品化されている生活用品は少なくない。 よく勘違いされるがヴィーガンは生き物を全く傷つけないという生き方ではない。 自分の選択によりできる限り傷つけないという生き方だ。 僕ら家族もそれなりに長くヴィーガンという生き方をしてきている。 もちろん食事だけではなく、身につけるものも、新たに買うものもその考えをもとに選んでいる。 ただこれだけは言っておきたいのは、僕らはヴィーガンになりたかったわけではない。 自分たちが心地よい選択の結果、それがいわゆるヴィーガンというカテゴリーだったというただそれだけだ。 ヴィーガンを謳いたくて、選択を変えたわけではない。 そんななかなか厳しい食生活だと思われるヴィーガン、実は蜂蜜も食べない。 蜂蜜自体は植物からの蜜だが、それを集めるミツバチが子供を育てるため、冬を越すために集めた蜜を人間が搾取するというのはミツバチを殺していることと同じであり、ミツバチを過酷に労働させているともとられるからだ。 ミツバチの立場からしたら、朝から晩までちょっとずつ集めた蜜が最後の最後に大きな生き物に全部持っていかれ、愛する数千の子供達が殺されてしまうのだ。 たまったもんじゃない。 我が家でも妻がお菓子を作る際はメープルシロップなど植物性のものを使っている。 あまり養蜂業界に詳しくはないが、商売で蜂を育てているところの多くは効率化、生産性を上げるため自然ではない形でミツバチを飼育しているところも多くあるだろう。 前述したように、ミツバチは地球上の生き物の生態系に大きく関わっている生物のひとつである。もちろん生き物全て大きく関わっているのではあるが。 僕らはこの土地に来て6年近く経ち、無農薬で畑や田んぼをしてみたり、山や草花と共に暮らすという生き方を選択することで、だんだんと僕らの住む家の周りの生態系も変わってきた。 風が通ることで、水が流れ、草に覆われて淀んでいたところには今まで咲くことのなかった花が咲くようになったり、たくさんの生物も共存するようになってきた。 ミツバチもそのひとりだ。 田んぼに咲く、たくさんのレンゲの花にたくさんのニホンミツバチが集まるようになった。 何もしなければこのミツバチもだんだんと減っていってしまう。 スズメバチに襲撃されることも多いだろう。気候変動によってスズメバチも増えてきたという。 そんなこともあって彼らが快適に繁殖できるよう、ミツバチのために家を作ることにした。 ちょっとずつではあるかもしれないけれど、僕がこの山奥で彼らにできることは周辺環境含め、できるだけ彼らが過ごしやすい空間をつくること。 そのお礼に畑の野菜を実らせてくれたり、果樹もたくさん採れるようになるだろう。 幾らかの蜂蜜もいただくことになるだろう。 最後の最後、僕にひっかっかていたのは彼らの集めた蜜をもらうということ。ミツバチと共に暮らしたいとは思っていても、別に彼らが集めた蜜をあえてもらう理由は特にない。 でも、去年ミツバチと共に暮らす人から 「巣が大きくなりすぎると、暑さや重みで巣が落ちてしまって全滅してしまう。定期的に人の手で助けてあげないと」と。 まさに共存。 近年の温暖化は至る所に影響を及ぼしていることを改めて痛感する。きっと知らないところで自然のミツバチの巣はたくさん落ちてしまっているのではないかと。 ミツバチに助けられること、人が助けてあげられること。その助けた際の少しの蜜は家でありがたくいただくということ。 少しでもミツバチがまた増え続けられるように。 できるならば、どこか遠い国で何十年もかけて育った木の蜜より、僕はその方がより自然の循環の中にいると感じたし、ミツバチと共に生活することでもっと自然のリズムに参加させてもらえる気がしてならない。 そんなこんなで息子と巣箱作りにとりかかり、この雨が止んだら彼らの家を設置してあげよう。 ネットで調べれば、ヴィーガンは蜂蜜を食べてはならない。食べてる人はヴィーガンではない。だから私は食べない。 そこに”考える”というプロセスはない。 そうではなくて、 もっと視野を広げ、学び、考え、その結果何が本当に循環した調和の取れた選択なのか。それが僕らの望む生き方だし、できることを一つずつ実行していく。 形はその人それぞれだと思う。もちろん私利私欲に動かされる動機は別として。 量産される蜂蜜を買うことはないだろうし。 もし定義だけに囚われるくらいなら、たとえヴィーガンと呼ばれなくたって僕は気にしないし、そんな肩書きのためにヴィーガンしていたわけでもない。 一歩さらに地球にできることをした形だと僕は思っている。 今のところ。 もしかしたら実際共に暮らしてみてまた違う考えになるかもしれないけれど。 今のところはより自然と共存できるくらしの一歩だと思っている。 ヨーガの教えも、ヴェーダの教えも、自然界の教えも、なんでもそうだけど、熟考すると言葉の意味がもっと深くみえてくるんじゃないかなと。 表面的なことにただトライするのもいいけど、その先がいつまでもあるということ。表面的なところで止まっていたら全体はなかなか見えてこないということ。 大人も子供も常に”考える”ことを楽しめるそんな人が一人でも増えたら、未来はどんどんよくなっていくと僕は信じている。 何より、ミツバチって可愛いんだよな。 楽しみだな〜。…

ヴィーガンとミツバチ その1

ナマステ。 フリースクールを設立しようとこの数年少しずつ準備を進めているのですが、 たまにどんな理念の学校なのかと聞かれます。 理念かどうかは分かりませんが、子供達があるがままの自分であれる場所でありたいなとは思っています。 自分の気持ちを押し殺したり、自分の気持ちに嘘をつかなければならないような環境ではなく、自分の気持ちを正直に表現できるそんな場所です。 それは子供に限らず、大人もそうであって欲しいと願うし、自分を偽ることが当たり前な社会がさまざまな社会問題を生んでいるとも思っています。 時に素直な気持ちは周りとぶつかることもあるでしょうが、そこで生まれる対話に学びがあり、それが本当に大切な時間だと思っています。 そしてもう一つ、大切にしていることは”考える”ということ。 自分で考えるということは当たり前のようで、現代では大きく欠如した人々の能力だと思っています。 自分が何をしたいかもわからなかったり、何か分からなければすぐに携帯で調べて、その情報を鵜呑みにしてしまったり。 少し時間が空けば、考えることよりも、携帯の画面をみて頭を使わずにすむ時間を過ごしてしまったり。 ヨーガもそうだけれども、聞いたこと学んだことを自分でさらに考えて、試して、考察する。 天気だって、食べ物のことだって、画面に出てきたことを鵜呑みにして、実は考えてないことの方が多いのが現代の世の中。 ひとつ前のブログでも書いたけれど、複雑な情報を簡単に手に入れられるようになったことによって、実は人々は頭や感覚を使わなくなっているように見えます。 さて、前置きが長くなりましたが、ご存知の通り山での暮らしを僕はしている。 畑に田んぼ、山の恵をいただき、自然になるべくインパクトの少ない生活を心がけている。 こんな暮らしを始めた頃からずっと気になっていることがある。 それはミツバチの存在。 みなさんはミツバチを気にして生活したことはあるだろうか? 近年、日本の在来種ニホンミツバチは数が減り絶滅してしまうのではと危惧されるほど。 減少によってさまざまな被害もではじめている。 一般的に市場に出回る蜂蜜や養蜂家が育てるのは外来種のセイヨウミツバチである。 このニホンミツバチの減少の原因には森林問題や、気候問題、農薬などさまざまな理由が考えられる。 皆さんはこんなことを聞いたことあるだろうか? 「世界のミツバチが絶滅するとその4年後に人類は滅びる」 これはかの天才アルベルト・アインシュタインの言葉だ。 自然に馴染みがない方にはイメージしにくいかもしれないが、多くの作物や植物はミツバチによって受粉されている。 ミツバチによる受粉がされなくなれば、多くの作物が実らなくなり、人々は食べるものを失い、自然界の秩序が乱れ始め、今保たれている自然も姿を変えていくだろう。 野菜だけでなく、植物が育たなくなれば、土が痩せ、川も海も栄養を失い、水辺の生き物も、動物たちも大きな影響を受けるに違いない。 僕の住む小さな集落でも昔からミツバチを育てていたじいちゃんによれば、もうミツバチはほとんどおらんくなった。昔はいくらでもおったのに、という。 畑をしていてもミツバチがいればもっと野菜が実るだろうと思うこともよくある。 色々な想いが重なり、この自然と共に生きる暮らしをしてからはいつかミツバチのお世話をしたいと思うようになっていた。 長くなりそうなので、つづく。

シンプルライフって本当にシンプルライフ?

ナマステ。 僕らの暮らしは一般的にシンプルライフと言われるような暮らしなのだろう。 できる限り機械に頼らず、木を切り、火を起こし、川や山の水で生活をしている。種を蒔き、米や野菜を育て、虫や動物、植物や木々たちと共に。 一見、その暮らしはとても魅力的で都会に暮らす人々からは羨望の眼差しを向けられることも少なくない。 もちろん僕にとってはこの上なく幸せな暮らしだ。 でも、これって本当に多くの人がイメージするシンプルなのだろうかと首を傾げることもしばしばある。 だってシンプルライフやスローライフという言葉から想像できないほどに、自然との暮らしは毎日”やらなければならないこと”が次から次へと押し寄せてとてつもなく複雑にさまざまな出来事が絡み合っているのだから。 冬に薪ストーブで暖をとりたければ、少なくとも1年以上前から薪を割って乾かさなければならないし、その薪は山に木を切りに行かなければならないし、そのためには薪小屋を作っておかなければならないし、チェーンソーの刃は研がなければならないし、そのためには…。 山に季節の山菜やお茶、食材が実ったならば、天気と実り具合をみながら山に入らなければならない。街では考えられないほどの量が一度にたくさん採れ、大抵の山の恵みは下処理がとても面倒なものばかりだ。大量の面倒な下処理をその日中に終わらせなければならず、また天気と相談しながら、1年分の保存食を天日干しする。 そうこうしているうちに、あたりは草ぼうぼうになりはじめ、草刈りに追われていると次の季節の仕事がやってくるか、どこからかじいちゃんばあちゃんがやってきてなんてことない長時間の井戸端会議が始まるのだ。 自分のやりたいことなんてなかなか進まない。でも自然は待ってはくれない。 ひとつひとつどれもやっていることはとてもシンプルなのだが、その暮らしは季節のリズムやその年の気候、自然界の秩序や人々との繋がりが本当に複雑に絡み合って構成されている。 頭や五感が最大限に働いていると言ってもいいかもしれない。 逆に、街の暮らしはどうだっただろうか。 複雑な機械に囲まれて、とりあえずスイッチを押せば明るく、綺麗に、なんなら食べ物さえもスイッチで出てきてしまう時代だ。 朝起きて、複雑な機械に触れるところから始まり、複雑な路線に乗って、複雑な機械とともに1日を終え、どこからきたか分からない食べ物がいつでもどの季節でも買えて、帰ってきたらまた複雑な機械の画面を見て、また朝が来て、またスイッチを押して…。 複雑に見えるこっちの方が実は”単純”な暮らしではないだろうか。 人々はシンプルライフを求めているようで、実はもっと複雑に絡み合った頭や五感をフルに働かせている暮らしを求めているのではないだろうか。 自然の中で畑作業をしていたら、頭がスッキリするように思えるのは、何も考えないからではなくて、五感が働いているからなのではないだろうか。 身体が動かないでじっとしていたら凝り固まるのと同じで、頭や感覚も同じなのかもしれない。 スローライフに憧れて都会から移住した人が、田舎生活は想像以上に忙しく、うまく行かず、周りとの付き合いが面倒だなどの理由ですぐに戻ってしまうことも少なくない。 シンプルだと思った生活は都会では考えられないほどに複雑だったからだ。 シンプルなようで複雑な暮らしなのか、複雑なようで単純な暮らしなのか。 田舎だから都会だからという話ではなく、これはどこにいても自分の選択でシンプルな暮らしはできるだろうというもの。 シンプルな暮らしは時間や手間がかかる。 そこに価値が見えるのか、そうでないのか。ただそれだけな気がする。 僕は手間のかかることが好きなようだ。 今日は藍染の準備をすることにしよう。着るものを大切に長く使うために。 こりゃまた手間のかかることになりそうだ。

とくしま住民投票の会

「とくしま住民投票の会」 今年、徳島県内の有志によってこのような団体が設立された。 代表は僕ら家族がお世話になっているフリースクールTOEC代表伊勢達郎氏。 僕はこの団体の呼びかけ人としてお声がけいただき、この団体に参加させていただくことになった。 簡単に言えば、住民の声がもっと政治に反映される仕組みづくりである。 選挙の時だけではどうしても、住民の想いが届きにくいこの現状を、あらたな条例を生み出すことで、民意が届きやすい政治の仕組みをつくるというもの。 この条例ができることで徳島から全国へ広められるモデルケースになればという想いで設立された。 これが実現して全国に広まれば、日本がより民主的なあり方であれるのではないかという希望を持った活動である。 もちろんそこにはたくさんの課題や問題点もあるだろう。 絶対にこの条例を作って政治を変えてやるんだー!という対政治家という気持ちではなく、本当にこの条例は有意義であって、調和的であるかどうかから話し合いが始められた。 理想論かもしれないけれど、だれも敵を生まない政治でありたいと僕は思う。 僕も10年以上前に政治に関心を持ち、自分なりの活動を続けていますが、選挙の時だけ盛り上がる関心の低さや、無関心が故に引きおこす社会問題、環境問題などなど。 色々頭をかかえることもこれまでにあった。 どうしたら少しでもよりよい未来へ向かえるのか。 僕には何ができるのだろうか。 2011年を境に僕は僕のできることを小さなことからやり続け、たくさんの人や環境の力でいつか大きな改革が起こせたらと思っている。 僕の活動はそんな仲間をひとりでも増やすことができればという想いが強いかもしれない。 この住民投票の運動以外にも、今はたくさんの僕ができるかもプロジェクト(教育、ゴミ、環境、山林などなど)を同時にすすめている。 もちろんひとつひとつとんでもない課題や壁、もっと専門的に学ばなければならないこと、金銭的な問題などなどそれぞれに解決しなければならないことが山積みで、生活が危ぶまれるほど。 でも、僕らはそんなことを理由に活動を止めることはしないし、絶対なんとかなると前向きな姿勢とみなさんの協力のもと焦らず一歩ずつその道をすすんでいる。 今、どのようなことをしているのか、実現する前に想いを語るのは簡単なので、今のビジョンは言いませんがいつか必ず実現させて、こんなことを実現させましたと言う報告ができるようにします。 やりたいことを口にするのは簡単。でも実際やれていることを口にしたい。 もちろん口にするべき時は口にするのも大切ですけどね。それも大切な夢を叶えるひとつの手段。 でもそれよりもいつも心の中で唱えて、想い続けることが大事な気がします。 口だけ、想いだけにならないように。 僕は全部、一つずつ実現させていきますよ!みなさんもぜひ一緒にできることやれたら嬉しいです。 こんな言葉きいたことあるでしょうか? 何かをしたい人、10000人。 それを始める人、100人。 それを続ける人、1人。 僕は胸を張って、その1人であると言えるように、これからも体現し続けていきたいと思います。 できる範囲でね。なまけることも大切だしね。楽しんでワクワクできることやっていきましょう! よりよい未来のために。今できることを。

ムダのてつがく

先日、文化人類学者であり環境活動家の辻伸一さんの講演会に参加させてもらってきました。 辻さんは”ナマケモノ倶楽部”という団体の代表の方で、環境活動や自然と共に生きる考えを伝えられている。 僕が辻さんのことを知ったのは、つい去年のこと。 我が家で既に”なまけもの食堂”をオープンさせた後のことでした。 僕はナマケモノという生き物の生き方にとても感銘を受け魅了され、そんな生き方を多くの方の生きるヒントにしてほしいと”なまけもの食堂”と名付けた。 ここで少しナマケモノの魅力を…。 そもそもナマケモノは自分のことをナマケモノだと思っているわけではない。 きっと働くことに囚われた人種の人間がつけた名前に違いない。 人になんとひどい名前で呼ばれようと、彼らは気にしない。 むしろ命をかけて一生懸命毎日を生き抜いている。 命をかけてトイレに行ったり、なるべく狙われないように少ない動きと少ない食事で日々を過ごしていたり。 それでも彼らは自然の循環の中にいる。 命懸けだが、排泄は自分の住む木の根元にし、木の栄養になってもらい、またその木に生い茂る葉を食べたり体に生やした苔を食べて生きていくのだ。 そして、ワシなどの天敵に狙われたとすると、もがき抗おうとせず、すべての力を抜き受け入れるらしい。 なんとも深い生き方である。 もっともっとナマケモノの魅力はたくさんあるのですが、僕はナマケモノという生物からたくさんの生き方を学んだ。 子供たちにも人の評価など気にせず、自分らしく生きる生き方を選択してほしい。 そして辻さんもそんなナマケモノの生態に魅了されて方の一人であった。 現在は、何をするにも何かを目標に、目的にしてそれに向かってなるべく無駄なく、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスを重視してより早く近くを求められる時代になっている。 時間がもったいない、娯楽の音楽もラジオも、映画も動画も短くまとめられたり、倍速で聞き流したり。 人は無意識のうちに何かに急かされ、人にもそれを求めるようになった。 これが現在の生きづらさの原因の一つなのではないだろうか。 税金のために子供を産めと国が政策をうちだし、生まれた子供は無意識のうちに親からそんな教育を受ける。 何かのために。 もっと子供は何につながるかもわからないようなムダな時間をもっと大切に過ごすべきである。 それは大人も同じ。 ヨーガでは何のためにこの学びがあり、それのために何が自分の役割で、アーサナはそのためにあるべきで。 などなど。 学べば学ぶほど、頭がかたく、視野が狭く、楽しみが義務へと変わってくる人々をたくさん見てきた。 アーサナは聖典を理解するための準備のためにあるべきと教えられた人がアーサナが楽しく無くなってしまったと相談を受けることもある。 もちろんそうだけど、それだけなのか。 もっとムダだと思われるような、自分が本当に好きで没頭できる時間があってもいいのではないだろうか。 僕の生活は街に暮らす人からみたらとてもムダで、時間がかかって、こんな暮らしは街ではできないと言われるようなものだ。 ふらふら何時間も川辺を歩いたり、ひっきりなしにくる来客と1日中お茶をのんでいることだって珍しくない。 なんなら川で水切りをかなり熱心にやっている大人のひとりだとも思う。 あれなんて人生で何の役に立つというのか。 それでも僕は自分のできることを全力でやっている。 人からどう思われるか、どう見られているかなど考えず。 ヨーガを学ぶ人は、人生はヨーガの聖典からしか学べないと思いがちだけど、自然から、周りの人からいくらでも学ぶことはできる。 もっとなまけてもいいんじゃない? ナマケモノをみてごらんよ。 もっとなまけられる社会が僕もいいと思うし、辻さんにそれを再確認させてもらった。 でも僕は好きだからこれからの自然と未来の子供達のために今日も全力でできることに没頭します。ムダな時間と共に。

ヨーガの先生であること

ナマステ。 僕はヨーガの先生であることを頑なに否定してきたこの数年。 ふと、なぜこんなにもヨーガの先生ではないと自分に言い聞かせてきたのだろうかと。 今日の練習を終えて少し静かに過ごしていると、いろいろと過去の記憶が整理されてきた。 僕はヨーガを学びたいと思い、さまざまなクラスをヨガスタジオで受けた結果、Ashtanga Yogaというものに出会った。 それからもっとそのヨーガを学びたいと思って、インドに通うようになった。 学べば学ぶほど、知りたい道が定まり、いつしか聖典を学ぶようになった。 そうしてだんだんとヨーガの全体像が見えて来たように思う。 その中で、多くの方と同じようにこの素晴らしい知識をシェアしたいと思い、ヨーガを伝える機会をいただくようになった。 僕はヨーガを伝えることがとても好きです。 でも、そうなるとどの世界でも同じなのかもしれないけれど、活動が広がれば面倒なことも起きるようになった。 何年も前のことだしもう過ぎた話としてですが、ヨーガを学ぶため、インドに通ったり、聖典を長く学んだ人だとしても、こんなちっぽけなことに嫉妬して、エゴに振り回されて、それでも人の前ではあたかも聖人のように振る舞って。 その教えは自分のものだとか、それは自分の領域だとか。 当時僕はこのヨガ業界に心底呆れてしまったんだと思う。 たったひとつのひとりの出来事によって。 そんなに欲しいならどうぞ僕は全ていりません、全部どうぞ。とその時先生であることを僕は手放してしまった。 僕はただ、自分が学びたいだけだから。 僕は昔からこうゆう癖があるのだと思う。 不必要な争いに巻き込まれるくらいなら、自分の持っているものはすぐに手放してしまおう、と。 その時の強い出来事が、きっと僕の頭のどこかにこびりついていて、今でも先生でありたくないと強く思っていたのだと思う。 でも、最初にも言ったように、僕はヨーガを伝えるのがとても好きなのです。 職業がヨーガの先生でなくても、ヨーガは伝えられる。 そんな想いでその人の領域?に入らないように、家の周りの地元の人に伝えたり、四国あたりから出ないようにしたり。笑 それでもやっぱり伝えるの好きだからちょこまかちょこまか、もう部外者だしという気持ちでうろちょろし始め、 そこから気心の知れた仲間と一緒に何かクラスをさせてもらい、よりちょろちょろし始めた。 それでも今日の朝まで僕はヨーガの先生であってはならないと、どこかに強い想いが纏わりついていてそれを自分に言い聞かせていた。 僕は今は環境活動と子供達の教育のことを熱心に取り組んでいて、間違いなくそれは何よりもやりたいことである。 でも、この環境問題や教育のこれからを考えている中で、僕の向かいたい世界を目指すには、全国のヨーガを学ぶみなさんと共に進んでいけたらと強く思っているのです。 みなさんと共に歩まなければ目指したい世界は実現しないと思う。 そんなみなさんとこの現状を共有するためには、僕は部外者であってはならないし、ヨーガのみなさんから離れた場所で活動をつづけても思い描く未来はやってこない。 ヨーガを学ぶみなさんの力が何よりも必要だと心から信じているのです。 過去のくだらない一つのできごとで、未来のこどもたちに返せる豊かな自然や、その子らしく生きる可能性を少しでも減らしてはいけない。 今朝の練習後、強くそれを思いました。 僕はみなさんに伝えたいことがまだまだたくさんあります。 それがヨーガなのか地球のことなのか、未来のことなのか。 僕の中ではひとつの物語。 ヨーガを学ぶ皆さんとまだまだ手を取り合い、未来をより良いものであれるように歩み続けるために、僕はヨーガを伝える人でありたいとまた強く思えるようになりました。 ヨーガの先生という肩書きを維持するためではなく、未来の地球や子供たちのために自分にできることとしてまたヨーガの先生であろうと思った朝の出来事でした。 がんこだから自分でも呆れちゃいますね。 改めて、ヨーガ指導者兼、環境活動家として積極的に活動していきたいと思います。 ヨーガから離れないようにと、この数年気にかけて指導の場を作ってくれたすべての仲間たちや先輩に感謝。 ちょっとずつ、指導者としても活動を増やしていければと思いました。 明日より胸を張ってヨーガの先生させてもらいます。 明るい未来を目指して。

今日のインド20240226

RolfとMarciの下での5週間の練習を先週終えました。 毎年、毎年、自分の状況が変わっているので毎年インドの練習で感じさせられること、気付かされることが全然その年によって違うなぁというのが、練習を終えての率直な感想です。 今年も全然違いました。 もちろん、アーサナを練習しに来ているのだけれど、本当にそれはツールにすぎず。 僕は、みなさんがどう思っているかは分かりませんが、自分ではヨーガの指導者という自覚があまりなく。 もちろん指導させていただくことはあるし、その時はその責任をもってその役割を果たさせてもらっていますが、僕の中では環境や子供達の未来を守る活動をする中で、その思いをより多くの方に届けるためのひとつのアクションがヨーガのお話しやクラスというような感覚なのです。 ヨーガを始めてからの最初の約10年はヨーガとは何かを知りたくて、ただひたすらにヨーガの学びに費やした時間だったように思えます。 ですが、今は自分がやりたい活動のためのベースとしてヨーガがあるということに疑いがなく。こうなると日々の学びや練習の見え方がまた大きく変わるわけで。 この数年は特に、ヨーガの学びの意味が自分の中でより明確に、そしてそれを少しずつうまく生活へ溶け込ませられていけるようになってきたように感じます。 もしかしたら、来年以降はインドでの練習よりも日本での時間の方が必要なのかなとかも少し思ってしまうほど。 どうなるかはっきりと答えは出せませんが、またじっくり日本でも学びを継続しつつ、より自分に合った選択と向き合っていきたいと思います。 日本に帰ってまたやりたい活動が山盛りです。これからはコインバトールのアシュラムで勉強会に参加させてもらってきます。 更なる自己成長をもって、これからの活動に役立たせられればと思います。 ぜひとも今、学びを続けている方、また特に指導をされている方。 どこか学んだことをアウトプットすることを頭のどこかに常に置き続けて学んでしまうのか、ただ自分の学びとして消化するのか。 何か知識を増やすために練習し、学ぶのか。それとも、より余計なものを削ぎ落とすために練習し、学ぶのか。 ぜひ自分自身の理解のために。 自分はできている、あの人は出来ていない。と人にばかり指を向けるのではなく、 自分はどうだろう。と常に自分に人差し指を向けて観察できるための練習でありたいものですね。 僕の伝えたいことは長年あまり変わらないように思いますが、今年もまたたくさんの学びをいただいたインドでの練習となりました。 これからの環境や子供達に反映できるよう、時間をかけて消化していきたいと思います。