シンプルライフって本当にシンプルライフ?

ナマステ。

僕らの暮らしは一般的にシンプルライフと言われるような暮らしなのだろう。

できる限り機械に頼らず、木を切り、火を起こし、川や山の水で生活をしている。
種を蒔き、米や野菜を育て、虫や動物、植物や木々たちと共に。

一見、その暮らしはとても魅力的で都会に暮らす人々からは羨望の眼差しを向けられることも少なくない。

もちろん僕にとってはこの上なく幸せな暮らしだ。

でも、これって本当に多くの人がイメージするシンプルなのだろうかと首を傾げることもしばしばある。

だってシンプルライフやスローライフという言葉から想像できないほどに、自然との暮らしは毎日”やらなければならないこと”が次から次へと押し寄せてとてつもなく複雑にさまざまな出来事が絡み合っているのだから。

冬に薪ストーブで暖をとりたければ、少なくとも1年以上前から薪を割って乾かさなければならないし、その薪は山に木を切りに行かなければならないし、そのためには薪小屋を作っておかなければならないし、チェーンソーの刃は研がなければならないし、そのためには…。

山に季節の山菜やお茶、食材が実ったならば、天気と実り具合をみながら山に入らなければならない。街では考えられないほどの量が一度にたくさん採れ、大抵の山の恵みは下処理がとても面倒なものばかりだ。大量の面倒な下処理をその日中に終わらせなければならず、また天気と相談しながら、1年分の保存食を天日干しする。

そうこうしているうちに、あたりは草ぼうぼうになりはじめ、草刈りに追われていると次の季節の仕事がやってくるか、どこからかじいちゃんばあちゃんがやってきてなんてことない長時間の井戸端会議が始まるのだ。

自分のやりたいことなんてなかなか進まない。でも自然は待ってはくれない。

ひとつひとつどれもやっていることはとてもシンプルなのだが、その暮らしは季節のリズムやその年の気候、自然界の秩序や人々との繋がりが本当に複雑に絡み合って構成されている。

頭や五感が最大限に働いていると言ってもいいかもしれない。

逆に、街の暮らしはどうだっただろうか。

複雑な機械に囲まれて、とりあえずスイッチを押せば明るく、綺麗に、なんなら食べ物さえもスイッチで出てきてしまう時代だ。

朝起きて、複雑な機械に触れるところから始まり、複雑な路線に乗って、複雑な機械とともに1日を終え、どこからきたか分からない食べ物がいつでもどの季節でも買えて、帰ってきたらまた複雑な機械の画面を見て、また朝が来て、またスイッチを押して…。

複雑に見えるこっちの方が実は”単純”な暮らしではないだろうか。

人々はシンプルライフを求めているようで、実はもっと複雑に絡み合った頭や五感をフルに働かせている暮らしを求めているのではないだろうか。

自然の中で畑作業をしていたら、頭がスッキリするように思えるのは、何も考えないからではなくて、五感が働いているからなのではないだろうか。

身体が動かないでじっとしていたら凝り固まるのと同じで、頭や感覚も同じなのかもしれない。

スローライフに憧れて都会から移住した人が、田舎生活は想像以上に忙しく、うまく行かず、周りとの付き合いが面倒だなどの理由ですぐに戻ってしまうことも少なくない。

シンプルだと思った生活は都会では考えられないほどに複雑だったからだ。

シンプルなようで複雑な暮らしなのか、複雑なようで単純な暮らしなのか。

田舎だから都会だからという話ではなく、これはどこにいても自分の選択でシンプルな暮らしはできるだろうというもの。

シンプルな暮らしは時間や手間がかかる。

そこに価値が見えるのか、そうでないのか。ただそれだけな気がする。

僕は手間のかかることが好きなようだ。

今日は藍染の準備をすることにしよう。
着るものを大切に長く使うために。

こりゃまた手間のかかることになりそうだ。

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