複雑なアーサナを取り組むことで見えた世界

ナマステ。

今年も師との練習が始まり4週間が終わりました。

4週目に入った頃でしょうか、段々と身体や精神の感覚が研ぎ澄まされ、細部までの情報が徐々に見えて感じられるように戻ってきたように思えます。

別に難易度が高いアーサナを取ることが大切でもないし、必須でもない。

そこに痛みや怪我があってはもってのほか。

いつも言うようにアーサナはヒーリングであり、ネガティブはゼロでなければならない。

それを大前提としてここでは練習が進められるのですが、

徐々に微細なエネルギーに目を向けられるように戻ってきたこともあり、

今までで一番困難であり、そして危険だとも思えるアーサナと向き合っております。

危険なことをヨーガでやる必要あるの?と思うかもしれません。
必要ないと思う人は、必要ないでしょう。

もちろんそれが本当に危険であってはならないですし、

それに向き合った人は、向き合った人にしか見えない世界があるのも確か。

どちらも正解だと思いますけどね。

もし少しでも身体を痛めそうであれば絶対に僕は無理はせずそこでやめてきました。

ただ、今週最後のマイソールクラス。

困難なアーサナと向き合っている最中、

今までの練習で培ってきた身体の知識、心の扱い方、全身のエネルギーを丁寧に観察している状態。

さまざまな過去の練習の集大成がその一瞬一瞬の点である瞬間に集め、困難なアーサナを探りながら深めるという、久しぶりにいわゆるゾーンのような感覚の中でアーサナを取り組む自分がいました。

あの状態は闇雲にアーサナを深めるだけにフォーカスしていては見えない世界だと僕はいつも思っていて、穏やかでありながらとてもエッジの効いた山の尾根に立っているかのような。

命の危機を感じながら登った山や、命の危険を感じながらテイクオフしたサーフィン。

まさにその時と同じような感覚。

だけれども心は穏やか。
というよりはもはやそこに”ある”けれど”ない”ような感覚。

まぁそんな感覚的なことはさておき。

何が言いたいかというと、

今までの練習での知識や自身の扱い方の集大成が、間違いなくそこに集約されていて、
いかにそれを信じれるかということが試されているかのようでした。

もちろん、それまでの知識や身体の理解が間違っていれば間違いなく怪我をしますし、
それに向き合わなければ、その形には成り得ないし。

そしてそのあるべきアーサナの形まで持っていけた時、アーサナの形がとれたーという感覚ではなく、自分を信じれた強さと、それにより消えた恐怖心であったり疑う心であったり、信じたものが割と間違っていなかったのかもという今までの学びに対する敬意であったり。

ひとつのアーサナと向き合うことで、その一瞬にはたくさんの感覚が繊細に張り巡らされていました。

とても新鮮な気づきだったので、練習が終わってからこうして言葉としてシェアしようと思ったのですが、2日経って書いている今、もうその感覚は段々と薄れ、言葉にもうまくできなくなってきています。

結局はそんな感覚的なことは重要じゃないのでしょうね。

そんな感覚はただの道の途中の小さな出来事に過ぎず。

そんな感覚を追い求めず、いままで通りみなさんも練習していきましょう。

そうしていれば、たまにこうしたサプライズ的なイベントが起こったりするのでしょうね。

何はともあれ、今日もいつもと変わらぬ1日を過ごしております。

Om

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