エネルギーを食べる。

アーユルボワーン。 旅が始まり、あっとゆう間にひと月以上が過ぎてしまいました。 Time goes fast. 毎日丁寧に、欲張らず、のんびりと。 毎日最高の日々を過ごせています。 3月いっぱいでアシュタンガヨガの総本山・インドはマイソールKPJAYIでのプラクティスを終え、今スリランカのヒッカドゥアへやってきました。 このヒッカドゥアはスリランカの西海岸に位置し、サーフポイントとして有名な場所。 去年もインドの後にスリランカへ来ましたが、その時は東海岸のアルガンベイへ。 5月ごろからはシーズンが東へと変わり、みな波を求めアルガンベイへと移動していきます。 ひと月のマイソールの練習では、いかに自然のエネルギーがこの身体とココロのバランスを保ち、力を与えてくれていたかを見つめ直すことが出来ました。 マイソールとは言ってしまえば街。 交通量も人も多く、店も何でもある。 日本にいる時もここ数年は街にはほとんど触れず。時間があれば海か山へ出かけ、街で食事をしたり、買い物をしに行くなんてことはほとんどない。買い物するのも帰り道の登山道の途中にある無人野菜販売所くらい。 そんな毎日。 久々にマイソールでは街での生活を送りました。 街は街でそれは楽しいけれど、やっぱり街の物に溢れるエネルギーは僕にはあまり必要ではないのかなと。ただ、そこで共に過ごす様々な人からは素敵なエネルギーをいつももらっている。 この空間には色々なエネルギーが混ざり合っていて、目には見えないけれどそれが間違いなく栄養となっている。 どれを身体に取り入れるかは食べ物と同じで、選ぶことが出来る。 ただ、そこにない自然のエネルギーを身体が欲しているのであれば、身体の声を聞き、取り入れてあげなくてはならない。 そんな時、僕らはよく川へ行った。 住んでいるところからバイクに40分くらい乗って。 川に浸かると身体が求めている何かを優しく埋めてくれる。 プールではきっとダメなんだ。自然でないと。 何かを欲(ほっ)する。 「欲」 “よく”と読むこの漢字は、欲すること全て”よく”として一括りにする訳ではない。 見極めなければならない、それが欲なのか、身体に必要な栄養なのか。 そうこうあって僕は今スリランカにいる。 つづく。

Slow time, slow life

毎日毎日、何をすることもなく、気づけば寝る時間になっている。ブログを更新したいなと思いつつ、意外と携帯を眺める時間もなく。 そうこうしているともうマイソール滞在も残り2日となってしまいました。 そんなのんびりとした1日の流れはこんな感じ。 ここマイソールでの練習は早い人では4時頃から練習が始まるのですが、僕はマイソール1年生。 なので、僕の練習は8時ごろからのスタートとなります。 5時に起きてまずはゆっくりと時間をかけてお茶かコーヒーを飲みます。 そして、身体をほぐしたりプラナヤマ(呼吸法)や瞑想を1時間くらいかけて朝日と月あかりの下、ルーフトップでのんびりと。 朝のゆっくりした時間は1日を豊かにしてくれる。 朝の太陽礼拝もそうだけど、朝のただコーヒーを飲むだけの時間ってのもヨガと同じくらい大切だと思っていて、これも何年も欠かさず毎日続けています。 そこから練習に向かい、シャラと呼ばれる場所で1時間半くらいフルパワーで練習をします。 このシャラの中の熱気は入った者のみにしかわからぬフルパワーさ。 練習が終わり、だいたいここで朝の10時。これで今日やることはお終い。 4時ごろから練習してる人は朝の5時半くらいでもうやることはお終い。 ココナッツのんでフルーツ食べて、近くの店で美味しい朝ごはん食べて。 シャワー浴びて、洗濯機はないからバケツで汗だくの練習着やヨガラグを洗って。 昼寝して。 昼飯食べに行って、のんびり川とか浸かって。    気付いたらいつもサンセットタイム。 だいたい19時。 帰ってシャワー浴びて、少し身体をほぐして21時には就寝。 昼寝の時間をクラスに変えるくらいのリズムで日本でも生活したいなと。 それが前々から思い描いている仕事のスタイル。 いつかきっと。 そのために僕は明日もフルパワーで練習します。 のんびり生きるには、きっと見えないところでその何十倍の努力が必要になってくるのだろう。 ぼくはそんなにしないけど。 明日も朝日と共に目を覚まし、月が出てきたら寝ます。 明日もよい日でありますように。

今日も世界は美しい

執着を無くすためにはどうしたらいいのだろう?と先日書いたブログを読んでくれた方から連絡をもらった。 以前のブログにも書いたように、どちらかと言うと、僕は執着心が薄い方だと思う。誰と比べてと言うよりかは以前の僕と比べると。 人は生きている間にたくさんの執着や欲と共に生きている。 あれが欲しい、こうなりたい、こうして欲しい。 あれがあれば私は幸せになれる。 こうなったら私は輝ける。 もっとあの人はこうしてくれたらいいのに。 でも、そうして手に入れたもの、与えてもらったものってのはいずれ壊れたり手放すときがやってくる。 常なるものはこの世には無いから。 そうすると、安心や幸せをもたらしてくれていたものは突如、不安や怒り、悲しみを生む対象に変わってしまう。 おかしな話だね。 それがあれば幸せだったのに、それが原因で悲しみが訪れる。 どんだけ立派なものや美しいもの、心地よい優しさを手に入れてもそれでは人は満たされることは無いのだろう。 “執着を無くすには”とゆう考えも実は新たな執着を生むことになるだろう。 執着が無くなれば楽になる。 逆を言い返せば執着があると苦しむ。 そうなると、執着を無くしたいと思ったときから、執着がある事が苦に感じられてしまう。 そんなのは嫌だ。笑 こんな話は何日あっても話し尽くせないし、話してどうこうってわけでもないと思っているのでこの辺でお終い。 要は頭で考えるより感じで体験するしか方法はない。 1日30分だけでもいい。 朝起きてから、夜寝る前。いつでもいいけどただ目を瞑って、じっと座ってみてください。 シンプルなようでそれが、すごく難しい。 イライラもするだろうし、時間が気になるかもしれない。落ち着きが無くなって動きたくなることもあるだろう。 でも、それに耐えてただじっと座るだけ。 いつかきっと気づくでしょう。 大切な何かに。 手に入れたもの。与えられたもので満たされるわけではなく、すでに僕らそれぞれが満たされていることに。 今の自分はもう完全な幸せを持っている。ただそれに気付かず、周りに何かを今まで求めていたことに。 今の自分が100%幸せだなんて、そんなことはない!と思う人がほとんどかもしれない。 でも、そんなことはない。 自分の思うその幸せは何なのだろう? 結局は今ない何かをまだ求めているのではないだろうか。 いつか不安や怒りに変わる何かを。 ヨガだってサーフィンだって旅だって、全ては瞑想なんだ。 波があればいいなと思って行った海が、全然波が無くてもいいじゃない。空を見上げれば青空が広がり、美しい空気がそこにはもうある。 無いんじゃない。有るんだ。もう。 実は執着があろうが無かろうが、もう幸せはここにあったんだ。 そうなった時に、自然と執着は消えているでしょう。 もちろん、大切なもの、大切な人が不安を与える存在と言っているわけではない。 そんな大切なもの、大切な人がいてくれる事によって今が満たされているわけだから。 矛盾なような矛盾でない話。 これは頭ではなく、感じなければならない話。 海行きたいなぁ。笑

インドより愛を込めて。

今、僕がインドにいて、素敵な仲間と思いっきりヨガの練習に取り組めて、ここで学んだことをまた多くの人にシェアさせてもらって、それがまた見えないところと見えないところで繋がって。そんな風に宇宙はひとつとして成り立っているのだろう。 繋がっていないものなんてなく、直接見えたり、認識はできないけれど、それは必ずどこかで繋がっている。 ひとつの宇宙として。 時もまたしかり。 僕の両親が歩んできた1秒1秒が今の僕を作り、またその両親もじいちゃんばあちゃんの1秒1秒から作られ、そのじいちゃんばあちゃんが出会った人のおかげで僕らがいる。 自分ってのは、この肉体でも考えでなく、結局全ての見えないところからの繋がりで出来ていて、そうすると自分ってのはこの宇宙全体ってことになる。 とても断片的で分かりにくくなってしまったけれど、僕はそう思って毎日を過ごしている。 2016年3月10日の晩、家族からばあちゃんの訃報が届いた。 ばあちゃんは肉体を手放したけれど、ばあちゃんの意識はまだこの宇宙に存在していて、形を変えて僕らとともにこの宇宙を旅しているのだろう。 ただ意識の入れ物を手放しただけ。 旅の話も、山の話も、海の話も、いつも写真を見ながら盛り上がった。 スリリングでクレイジーであればあるほどますます盛り上がる。 かっこよくて可愛い92歳だ。   そして本日、告別式が終わったようだ。 今回、悩んだ結果僕はインドからばあちゃんを見送ることにした。 今こうして毎日楽しく過ごせているのは間違いなくばあちゃんの人生のおかげで、僕はまた帰国した時にばあちゃんが喜んでくれるくらい楽しい話をしてあげたい。 だから今回は会いに行けなかったけど、帰国したらすぐに会いに行こう。 本当にありがとう。 おばあちゃん大好きだよ。

Shivratri

昨日はシヴァ神の生誕を祝うシバラトリがインド全土で行われていました。 シヴァテンプルには長蛇の列ができ、皆シヴァへの礼拝を行います。  こうして何年も途切れることなく脈々と受け継がれている神への祈りのエネルギーがインドの魅力なのだろう。 見えないけれど間違いなくそのエネルギーはこの土地を満たしている。 目の前に広がるこの素晴らしい世界をありがとう。 Om namah shivaya

Korean party

インドは何と言ってもフルーツが安くて美味しい。スイカ、マンゴー、パイナップル、パパイヤ、マスカット、ココナッツ、ザクロ。 毎日の朝飯はこれ!  プラス何かしらのインド飯。 そんでもって今日は練習後に韓国の練習生の子たちに韓国料理ホームパーティーに招待してもらいました。  なかなか普段食べることのない韓国料理。しかもNon-MSGでベジ。 キムチもインド滞在中に作ったとのこと。 インドにいながら各国のヘルシーな料理を食べられるのもヨガコミュニティのいいところですね。 食べるって本当に幸せ。 みなさんも出来るだけ、丁寧な食事で生活を豊かに。

Indian food

アシュタンガヨガを愛してやまない僕らのここでの生活は、やはりヨガが中心だ。早い人は朝の4時ごろから練習が始まるので夜は8時には寝る。 翌朝の練習までには身体を空にしておきたいので、基本的に晩飯は食べない。 そして朝の練習が終われば、その日のやることは終了。  朝ごはんからはフリー。 皆解き放たれた鳥のごとく、美味しいものを目指してバイクを走らす。  ヨガで研ぎ澄まされた感覚や細胞にまで染み渡るスパイスたち。 昼飯を食べればまた巣へ戻り、翌朝の練習に向けてのんびり身体を休める。 ヨガとインド料理まみれのこの生活は何よりも贅沢な時間。    欲を言えば、サーフィンがしたいくらい。いや、すごくしたい。 明日は日曜日で練習はお休み。 今晩は少し羽目を外して、enjoy party night!!

楽しみのなかにあっても執着をもたず

ヨーガの聖典「バガヴァッド・ギーター」の中にこんな一節がある。”苦しみのなかにあって心を乱さず、楽しみのなかにあって執着をもたず、貪り、おそれ、怒りを離れた者は「知恵の定まった者」とよばれる。”  今回のインドに来る前に僕はあらゆる心地よさを一度手放した。つもり。 慣れ親しんだ関西の土地や、最高に楽しく働かせてもらったパタゴニアとゆう職場や、あらゆる土地で素敵な出会いをさせてもらっていたヨガのクラスや。 それはそれは、どれも心地良く、最高に楽しい毎日ではあったけれど、自然の流れに身を任せていると、どれも手放さなければいけないタイミングなのだと言われている気がした。 自然の流れに身を委ねて生きるという生き方そのものがヨガの修行のひとつだと僕は思っている。 今までの旅は帰れば仕事もあり、寝る場所もあったけれど、今回はそうゆうわけではない。 行きの飛行機の中では今までにはなかった不安もあったけれど、このギーターの一節を読んで日頃から無意識に行われていた執着の無さに不安は喜びへと変わった。 一度手放したとはいえ、それは必ず形が変われど続いていくのも僕は知っているつもりだ。 何が言いたいのかと言うと、ここでの練習も最高に楽しいし、また新たな仲間たちと毎日美味しいインド料理も食べられて結局最高に楽しい毎日を過ごしてます。  では今日も噂のレストランへミールスやりに行ってきます!

Mysore

インド・マイソールでの練習が始まりました。 僕らがヨガを練習するシャラには毎日朝の4時前から昼前まで何百人ものプラクティショナーが入れ替わり立ち替わり各々の練習をして帰っていく。 今年は毎年練習していたゴアではなくマイソールへ。  まだ練習3日目ですが、ここでの練習も気持ちよく楽しんでます。 Om

ブログを始めます。

こうしてせっかく毎日旅をしているのでブログを始めてみたいとおもいます。 よかったらみなさんお付き合いよろしくお願いします。 飽きないように。なるべく更新できるように。頑張ります。