先日の神戸でのWSについて。そして僕について。を同志誠也くんがブログにしてくれていました。 とても良く書いてくれているので是非呼んでください。笑 https://ashtangayoga-kobe.com/archives/2822 同じ時期にインドに通い始め、インドの同じ敷地で長く生活を共にし、 まだヨーガのことを全然知らない時から、お互いの想いや夢を語り合う数少ない同志の一人。 誰かいい先生は知らないか?と聞かれれば誠也くんの名前はいつも上げる。 名前の通り、誠実なり。 関西の人たちは彼にも一度会った方がいい。 愉快な仲間がたくさんいてアシュタンガヨガは面白いね。 彼のブログの後半にも出てくるけど、もう少ししたら、淡路島リトリートの詳細もアップしますね。 お楽しみに。
Category: yoga
言うは易く行うは難し
この徳島県の山奥の小さな集落に住み始めてそろそろ1年になろうとしています。 ここは携帯の電波もなく、住人も我々を含めて15人。 僕ら2家族の移住者5人を除く、地元の人は70代1人、80代9人。 徳島県といえども徳島市内に行くには2時間半。 薪を割り、火をおこし、かまどで米を炊き、川で洗濯をして、畑で野菜を育てるそんな生活です。 都会で生活している人からすると嘘みたいな本当の話。 ボタンを押したら部屋が暖まることはなく、チェーンソーを持って、木を切りに行き、大量の丸太を軽トラで運び、その丸太をひたすら斧で割って、その薪を何ヶ月も乾かし、ようやく部屋が暖まる。 僕はここで何がしたいのか。 そんな話を今日は雨で外の仕事ができないので書いてみようかなと思います。 こうしてブログを読んでくれている方の大半は、僕のことをヨーガの先生だと思って読んでくれていると思います。 実際はそんな部分もあるのかもしれませんが、僕はいつまでたってもそんな自覚はあまりないわけで。 ヨーガの先生として生きているつもりは正直ありません。 いいかっこするな!と思われてしまうかもしれませんが。(いいかっこなのかどうかわかりませんが。) と言うより、自分でもよく分からないと言ったところでしょうか。 もちろん、クラスをさせてもらうときは責任を持って立たせてもらっておりますし、ヨーガをこの一生をかけて学び実践していくつもりではありますが。 実際、ヨーガのクラスをしていない時間の方が圧倒的に多いわけで。土や木を触っている時間の方が長いですし。 たまに学んだことをシェアさせてもらうだけの、ただのヨーガ好きの田舎の兄ちゃんです。 なので、ヨーガの先生として、一生懸命ヨーガを伝えなきゃ!という気持ちでも全くないので、毎年、お声をかけていただけたところに伺わせてもらう以外は基本的には村生活。 ネットを駆使して伝えたいわけでもなく。クラスをしないことを不安に思うわけでもなく。 なんならこの半年なんて、ほとんどクラスなどせず、薪割りと川で洗濯ばかり。 テレビもねぇ、電波もねぇ、ネットもほとんど見ることねぇ。といった生活なので、完全に世の中のヨガ事情を知らず、取り残されております。笑 ではなぜ、ヨーガのクラスをさせてもらっているのか。 いくつか想いはある中で、大きく占めているのは 簡単に言えば、 この自然や環境にもっと目を向けて欲しい。と言うことでしょうか。 その結果、我々の生活はもっと豊かになる。 そんな思いを”ヨーガ”や”食”を通して伝えさせてもらっているのわけなのです。 結局、ヨーガの教えではそうしたところもあるはずなのですが、 なかなかそこは都会での生活の中では忘れがちになってしまうのではないかと、山から街を見てよく思います。 こうしてヨーガを伝えさせてもらう前に働いていた会社も環境を守ることを理念とした会社でした。 表向きはアパレル会社ですが、店頭でお客さんに僕は環境の事ばかり話していました。 洋服を通して、僕らがすべき環境へのアクションを。 会社から言われているからではなく、僕がただ伝えたくて。 時には同僚にも上司にももっとできることあるでしょと噛み付くことさえも。 それが当たり前に言えたのは職場の全員がそこに大切な何かがあることを知っている人たちだったから。 ただ、もっと自分の伝えたいことをフィルターを通すことなく、あらゆる層の人たちに伝えたいので、その会社を辞め、ヨーガを伝えるという立場を選んだのです。 その頃も、今も同じ。 自分が体現していないことは伝えられない。 ヨーガも同じ。自分が実践していないこと、意識していないこと、本当にそうした世界観が見えていないことは伝えられない。 だから僕はこうした生き方を選んだわけです。 生活の中でできるだけ、環境に配慮をして、無駄なものを生み出さない。 今、僕がしている生活が100点だなんて思わないし、僕のしている生活を皆がすべきだとも思わない。 皆それぞれ違う環境で生活しているんだから、洗濯は川で。水道水は飲まずに、山の水を飲みましょう。 そんなことを強要したいわけではないんですね。 でも、ヨーガや僕の生活の一部を見て何を感じ取って欲しいかといえば、今まで知らなかった現状や、普段意識しなかった当たり前に過ぎていた無駄なものや状況に目を向ける機会を持ってもらえれば嬉しいなと思うのです。 それは、どの環境にいようともできることだとは思うのです。 実際、横浜に生まれ、東京の大学に通い、大阪で仕事をしていてもそんな想いを持っておりました。 あとは、そこに対して、継続して意識を向けることができるための心の準備や判断のために、ヨーガってとても重要だと思うんです。 知っているけど、継続して続けるって本当に大変ですから。 言うは易く行うは難し。 実践している人が善で、していない人が悪ではないし、 これから少しずつみんなができることを考える時間が作れたらいいなと思って日々ヨーガを通して伝えています。 ヨーガってこうゆうこと!って部分が伝えたいのではなく、 ヨーガを学んで何が大切かの識別がだんだんと見えるようになって、 そうした行動がきっとこの地球に届いて、それが巡り巡って僕らの周りに返ってくる。…
リトリートセンターまでの道のり
Little India Project in Tokushima GW期間中に行われたヨーガリトリートセンターづくり。 徳島の海のそばの山奥に見つけた秘境”久尾KUO”。 この土地に出会った時、学生時代から想い描いていた小さな村づくり構想が再び動き始めました。 GW期間中は日本全国より延べ数十人もの方が集まり、その構想が少しずつ現実のものへと。 集まってくれた方々の見事なチームワークにより、約2週間に渡るこの期間でヨーガの練習スペースや、オーガニックファーム、ヴィーガン料理のためのキッチンの準備が大分整ってきました。 まだまだ残された作業は膨大ですが、8月の徳島リトリートではこの場で学びを深められたらなと思っています。 電波さえ入らないこの何もない土地で、皆さんと学び会える日を心より楽しみにしています。
Ashtanga Yoga Kobe WS
ナマステ。 先日の神戸でのWSについて、同志・誠也先生がブログをあげてくれました。 https://ashtangayoga-kobe.com/doni先生のwsを終えて/ ぜひ読んでみてください↑↑ 彼との付き合いが僕のヨーガ生活の中で一番長く、 そして自分で言うのもなんですが、とても仲が良い。笑 帰国後、早速お邪魔させてもらったAshtanga Yoga Kobe。 Ashtanga Yogaを始めた頃からの同志・誠也くんのスタジオにようやく訪れることができました。 インド滞在中、彼とは一番長く時間を費やし、そしてたくさんのことを語りあってきました。 こうしてそれぞれの道を歩みながら、時に一緒にヨーガを伝えられる機会があることがとても嬉しく思います。 AYKBでお会いできる皆さんも、本当にいつも温かく迎え入れてくれ、気づけばいつも長居してしまっています。 日本全国、北海道、千葉、大阪、京都、岡山、広島、山口、香川などなど。 遠方からも皆さんありがとうございました。 また次にお会いできる日まで。 ぜひ、Ashtanga Yogaを実践している方はAYKBに訪れてみてください。 とても素敵な時間を過ごせることでしょう。
日本の祈り〜轟の滝〜
インドより、新年あけましておめでとうございます。 私は3年続けてのインドでの新年を迎えることとなりました。 こうしてインドで学びたい学びを存分に学べ、 その恩恵に明らかに包まれている日々の生活を送り続けられていること本当にありがたく思います。 こうしてヨーガやヴェーダ、インドに出会えたことに敬意と感謝を込め、 私は今日もヨーガやヴェーダとともにインドで過ごしています。 昨年、11月11日。 徳島県の小さな町、海陽町の山の奥。 轟の滝で毎年恒例の轟神社の秋祭りが行われておりました。 私がまだ関西を拠点に旅を続けていた頃、この海陽町に出会い、 そして、まだ訪れて間もない頃、この轟の祭のことを知りました。 今では、日本各地で徳島や海陽町、藍やサーフィンの魅力を伝え、ちょっと有名人となってしまった、海陽町のローカルサーファー永原レキ氏。 彼との最初の出会いはこの轟の祭の前日でした。 そして、出会って間もない彼は私をこの祭りへと招待してくれたのです。 この轟の祭とは。 山の奥地に生まれた四国最大の滝、轟の滝。 その滝に向かい、選ばれし男たちは極寒の川に一枚の布すらも纒わず、飛び込み身を清める。 その禊は、夜中も早朝も2時間おきに行われ、その回数は10回近くに渡る。 秋とはいえど、山奥の川の水は足をつけるだけでも気がひける程冷たく、 飛び込めば、心臓が押し潰されるような感覚が襲ってくる。 大声で叫ばなくては、自然の圧倒的な力にあっとゆう間に飲まれてしまう。 ただ、身体を川に沈めるだけでなく、僕らが目指すは滝壺、そして、その先の滝の裏側。 巨大な滝からのものすごい量の水が押し寄せる中、流れに逆らいひたすら泳ぎ、滝を目指す。 これはどこか瞑想的で、禊を重ねるごとにその自己との対話はより深いところへと向かう。 一回の禊でどのくらいの時間水に浸かっているのかは分からない。 ただそれはとても長いような、でも時が止まっているかのような。 不思議な時間だ。 この滝には女性の神様が宿っている。 そのため、川には女人禁制、男たちは裸になり身を神に捧げる。 この禊は本当に自然との関わりを教えてくれる。 宇宙の摂理。私という存在。 山に雨が降り、滝となり、川を流れ、海へと繋がる。 太陽がまた雲を作り、雨が降る。 僕らはこの川の恩恵を受け、生き物が生き、そこに育つ食物をいただいている。 サーファーにとっては、轟の滝が生む海部川は特別で、海部川の河口は世界中のサーファーを魅了する波が立つ。 この海部の河口に憧れて移住してくるサーファーも多く、 轟の祭りに参加した仲間の中にもこの海部を愛する人たちがたくさんいる。 自然の近くで生活する僕らだからこそ、この祭りはとても馴染み深く、 この地で生活する人々にとってはとても祈り深い祭りなのである。 神輿を担ぐ時間が近づくにつれ、多くのこの町に住む老若男女はこの山奥へやってくる。 それぞれの祈りのために。 幾度となく繰り返された禊の後は、白装束を纏い、神様を乗せた神輿を担ぎ、滝壺へ向かう。 神輿の重さは単なる物質だけの重さだけではないような、今まで経験したことのないような重みで、 この神輿を担ぎ、滝まで向かう道中、叫び、涙が溢れてきた。 この涙の意味は今となっては明確にははわからないけれど、 きっとそれは嬉しさと、感謝と、喜びと、この土地に生きる全ての代表として、神輿を担がせてもらったからなのだろうか。 神輿を担いでの滝壺は、御神体である神輿を川の岩にぶつけないように必死に守ることで寒さなど感じる余裕などなかった。 男たちは必死に神輿を守り、履いている草鞋も白装束もボロボロになりながら叫び、また神社へと戻ってくる。 田舎に受け継がれた、ひとつの祈りのはなし。 僕はよく、インドは祈り深い国だという話をする。 インド人は常に祈りとともにある。 ただ、日本でも祈りの文化はまだまだたくさん残っているに違いない。 祈ることの意味が少しづつクリアになってきたならば、どこででも祈ることはできるし、 生活の全てが祈りともなり得る。 僕は日本でも祈り深き人とともに生活させてもらっています。…
インドに来て、見て欲しいこと。
ナマステ。 みなさま、日本の冬いかがお過ごしでしょうか。 私は相変わらずインドにやってきています。 半分日本、半分インド。 今シーズンもそんなインドでの6ヶ月の生活が2週間前から始まりました。 こんな半々生活も今回で4年目。 それまでも年の約1/3はインドで生活という、何に魅了されているのか、日本のどの土地よりもインドで生活すること、学ぶことを大切に今年もやってくることができました。 そんな今シーズンのインドでは、以前より、いつかできればと思い描いていたインドでのリトリートを来年の2月に開催させていただくこととなりました。 北インドのハリドワールとリシケーシュという聖地に訪れます。(※詳細は下の方で。) この、インドでのリトリートには、並並ならぬ私の強い想いを込めさせていただきました。 少しだけそんな想いを聞いてもらえたらと思います。 私がこうして毎年やってくるインドには何があるのか、そして何を見てきたのか。 これまで日本でたくさんインドの話をしてきました。 インドで学んだことをたくさんの人に伝えさせてもらってもきました。 できる限り、インドで感じたことをそのままに。 でもやはり、そこでは伝えきれないことももちろんたくさんあるのです。 ここにしかない、音や匂い、ここに住む人やこの土地の空気。 こうしてインドに帰ってくると、やはり帰ってきたなぁという感覚になります。 きっと、目を閉じていてもそこがインドだとわかるような。 なんだか独特な空気感が。 インドでしか聞かない鳥や動物の声。 人の声も、街の騒音も。 朝のひんやりした空気と、そこに響く祈りの歌も。 話で聞く何倍も楽しく、美しい世界がここにはあります。 色々な方からインドにいつかは行ってみたいと、声をかけてもらうこともたくさんありました。 できれば皆さんに来て欲しいと思っていますし、その人にとって必ず一番いいタイミングがやってくるとも思っています。 なぜ、そこまでインドに来て欲しいのか。 ヨーガはどこででもできると、言われるかもしれません。 もちろんどこででもできるとも思います。 ただ、ここでしか知れないこともたくさんあります。 人は体験していないことは、いくら頭で考えても想像できません。 いくら本を読んでも、インド人から話を聞いても、毎日カレーを食べても、インドのことはわかりません。 私はこのインドでしか見ること、触れることのできない世界をより多くのヨーガを学ぶ人に触れてもらいたいと思っています。 もし、旅が好きで、一人であったり仲間たちと来れる方はぜひ、いつかこの地を訪れてみてください。 もし、一人で来ることが不安な方、なかなか一歩が踏み出せなかった方。 もしそんな方がいたら、こうしたリトリートを活用してみてください。 今回のリトリートでなくても、同じ想いで素敵なリトリートを開催している仲間もいます。 汚い、うるさい、怖い。 もちろんそれもインドです。 たくさんあります。 むしろ日本に比べればそんなところばかりかもしれない。 もちろん、気を抜くと危ないことだってたくさんあります。 最後の一歩が踏み出せない気持ちもよく分かります。 私はありがたいことに、インドで長く時間を過ごしてきました。 こうして、誰もが毎年インドに通い続けることができるものではないことも分かっています。 だからこそ、もしそのチャンスが一度しかないかもしれないのならば、その一度のインドでたくさんの体験をしてもらいたい。 一度のインドで、美しく、いいところばかり見れる人もいるかもしれないけれど、 それに触れられず、大嫌いになってしまうことだってあるのがインド。 汚い、うるさい、怖い。その中にある本当の輝きを見ることができぬまま。 今回のリトリートは短い6日間という時間ではありますが、これまで私が見てきたインドという世界のなかで、ぜひ見て、聞いて、感じてもらいたいところを出来る限り詰め込みました。…
今日のニッポン20180511
Aloha Death 旅を娯楽だとゆう視点から見ればインドに行くことは遊びでしかすぎない。サーフィンは趣味だとゆう視点から見ている人からすれば海へ行くことも遊びでしかない。 インドで本当に学んだことがある人ならば、インドでの学びの大きさを知っている。 サーフィンによって様々な叡智の恩恵を受けている人ならば、またそれもその偉大さを知っている。 ヨーガや禅、瞑想はその叡智に触れるためのツールだと人は疑わないのに、どうしてサーフィンやそのほかの楽しいとされることは、そのように理解されにくいのであろうか。 インドへ行くことも、海へ行くことも同じ。 僕らはそこへ学びに行くのです。 それは経験したことがある人からすれば疑いようのない事実。 サーフィンをする人は口を揃えて言う。 これはヨーガや禅と同じ世界だと。 サーフィンは僕の知る限り、ヨーガと同じくらい、この宇宙の摂理を知ることができるツール。 偉大なサーファー達が語るサーフィンを通して見た宇宙観。 サーフィンはただの遊びではない。 この宇宙を最も感じることのできる遊びのひとつである。 ヨーガの生徒さんが貸してくれた”Aloha Death”のDVD。 サーフィンをする人もしない人もぜひ機会があれば見てみてください。
2018年の楽しみ方。
2つの重要なお知らせ!! 今年もおもしろいことたくさんやります!! インドでのヨーガの学びも残り2ヶ月弱となりました。 明日からはネパールへと一度飛び立ちます。 そしてまたインドに戻り、4月末頃帰国します! ★お知らせ その1 〜〜 帰国後は徳島に移住。そして、オーガニックヨガビレッジづくりへ 〜〜 場所は徳島県のとある限界集落。 日本をいろいろ旅して見つけた桃源郷。 僕の伝えたいヨーガのために、僕は隠居します。 ★お知らせ その2 〜〜 帰国後のスケジュール 〜〜 村づくりが待っているので、クラスほとんどしません。笑 なので、みなさん是非少ない機会になりますが、ご興味ある方はぜひ予定だけでも空けておいてください。 数が少ない分、とても濃厚なクラスをさせていただく予定です。 ぜひ学びを深めたい方お待ちしております。 詳細、予約開始などは後日公開までお待ち下さい。 【お知らせ その1】 約7年。 自分の家を持たずに与えていただいたスペースで生活させてもらっていましたが、今回の帰国後は久しぶりに自分の家という形で拠点を持ちたいと思います。 まだどのようになるかわかりませんが、仲間たちと力を合わせ僕の伝えたいヨーガを生き方として作り上げていけたらなと。 場所は徳島県のとある限界集落。 仲間がすでにオーガニックビレッジを目指し昨年夏より活動中。 徳島市内からでも約2時間半かかる不便な場所ですが、そこにあるのは満ち満ちた豊かさ。 そこに加わり生活の中からヨーガを学べる場所を作りたいと思っています。 まずは自分の住む家を自分たちの手で改装からとなりますが、のんびりと気長に。 ぜひ、みなさんの力貸してもらえるときは遊びに来てください。 一仕事した後は、海でサーフィンしましょ! 村づくり手伝ってもらいながら、来てくれた方は朝みんなでお礼という形でマイソールクラスなんてのもいいですね。 まだどうなるかは本当にわかりませんが、来てもらえそうならばまたお知らせさせてもらいます。 村づくりの様子はブログで見てもらえるようにしようかなとも。 ぜひ、応援よろしくお願いします! 【お知らせ その2】 帰国後のスケジュールです! ぜひ、気になるスケジュールがある方は予定を空けておいてください。 詳細が決まり次第、情報を掲載いたします。 ●Mysore Tokushima @とよとみ珈琲(徳島) 2018年5月から場所をとよとみ珈琲に移してマイソールクラスを開催します。 毎月1日から14日の2週間限定クラス。(日程が変更する月は事前にお知らせいたします。) 練習後はとよとみ珈琲でモーニングしながらヨガ談義を楽しんでみてはいかがでしょう。 《時間》 AM5:30〜8:45 《休み》水曜日、ムーンデイ(新月・満月)…
Living Yoga
ヨーガとは生き方。 アーサナを毎日する生き方。 アーサナに加えてプラーナーヤーマを取り入れた生活。 ベジタリアン、ヴィーガンな食生活。 職業はヨガの先生。 毎日、瞑想しています。 僕の想うヨーガとはこれらのことではない。 これらを通って現れた生き方がヨーガなだけで。 これらはただのヨーガへの道にすぎない。 上のような生活を全てしていようがヨーガにならない人もたくさんいるだろう。 たとえアーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想をしていなくても僕の周りにはたくさんのヨーギーがいる。 彼らはアーサナをせずとも、ヤマ・ニヤマを知り、共に自然とその生き方を選んでいる。 ヨーギーになるために、ヨーガがあるのではない。 ヨーガな生き方をおくるものがヨーギーなのだ。 いまやいろいろなヨガがあるけれど、すべてはヨーガになりうるし、全然ヨーガではない可能性だってある。 ヨーガとは生き方。 マットの上に立つ生活のことではない。
今年もHappyな一年に。
みなさん、新年明けましておめでとうございます。 僕は相変わらずインドで年末感も新年感も全くなく、いつも通りカレーを食べてヨーガをしています。 2018年も帰国後、多くの方とまたヨーガを学び合えること楽しみにしております。 今年もみなさんはいろいろなところでいろいろな学びをされるのでしょう。 学びの理由もまたそれぞれ。 ぜひみなさんにとって実り多き一年であること願っております。 こうして、半年間もインドに滞在しながらヨーガの学びを深めていると、時折なぜヨーガを学んでいるのかと改めて考えることもしばしば。 それは、ヨーガを始めた頃の理由とも違うし、1年前の理由とも少し違う気もする。 日々、これは形を変えている。というよりも、より明確な理由へと形を変えている。 そんな気がします。 アーサナを学ぶ意味、聖典を学ぶ意味、毎日プージャをする意味。 今の僕にとっては一体理由はなんなのか、じっくりと時間をかけて見つめていきたいと思います。 言葉にすること、明確な答えを出すことが必要かどうかはよく分かりません。 逆にあたまでそんなこと考えない方がいいのかもしれないけど、それが自分で少し分かった時、また理解が少し深まる気がしたので、日々の生活は変わらないけれど、普段の生活からまたそんなことも考えて生活してみることにします。 みなさんも気が向いたらなぜヨーガを学んでいるのか。 ちょっと考えてみると気づいていなかった何かに気づくかもしれませんね。 こうして日本やインドで世界中のヨーギーと出会うとこれまた面白い。 同じように見える理由であっても、実は全く違った感情が働いていることもよく見かける。 ヨーガを教えたいから、資格を取りたいから学ぶ。 何のために学ぶのか。 同じティーチャートレーニング( TT)を受け、資格や修了証を取得することでも、ただプローフィールに載せるために資格をたくさん集め、満足してしまうのか。はたまた純粋に知識や自分の理解をより深めることで生徒さんに伝えやすくしたいのか。 よくTTって何なのさ談義もされるが、僕は正直どちらでもいいと思っている。 より短期間の間で広い知識に触れることはできるのだろうから、多くのメリットは間違いなくあるだろう。 ただ、素直な意見を言うならば、修了証にはさほど意味はないんじゃないかとは思っている。 いくら修了証を持ち合わせていようが、その人の姿形は何も僕には見ることができない。 もし共にヨーガを伝えあう機会があるなら、僕は修了証ではなくそに人の生き方を優先するだろう。 200時間や500時間。 ましてや1日の数時間でもらえてしまう修了証も今はあるくらい。 その修了証がどんな想いで、どんな意味を持っているのか、僕は知らないので、それをどうこう言いたいわけではなく、それを受講する側は、ぜひそのクラスをなぜ受けるのか。 その理由がステータスや見栄のためではないならばきっと、そのクラスは素晴らしい時間となることでしょう。 別に資格や修了証を手にした瞬間、先生になれるわけではないし、その紙がその人を輝かせるわけでもない。 そこで学んだ知識が自分のものとなった時、その人を輝かせるのだろう。 きっと先生ってのは目の前にいる人が、自分のことを生徒だと思うならば、その瞬間はそのヨーガを伝える人は先生である。それが僕の思う先生の形だ。 ただ自分のものとなった少しの知識を伝えるだけでも、十分人に幸せを伝えることができるだろう。 一度聞いたからといって、自分のものになるわけがない。 何千時間、学び続けてても、自分のものにならないことだらけだ。 このインドでの生活では毎日毎日、単純にマットの上で身体や心、座ったり聖典と向き合ってる時間だけでも大体毎日6時間以上ある。 それでも一日に自分のものとなった知識はあったのかなかったのか。 僕はそんなもんだ。 外から飾るのではなく、内側を輝かせないと。 TTも修了証がどうこうではなく、ただそれを学ぶ姿勢が大切なんじゃないだろうか。 TTや修了証はよくこういったいわゆるTTってなんなのさ談義に持ち上げられやすいが、それはTTや修了証に限ったことではない。 アシュターンガヨーガでの伝統の教えでは、TTはない。 なので多くのアシュタンギーはTTの取得ではなく、日々の練習に励む。 でも、ここでも同じようなことは起きるのだ。 時として、日々の練習もアーサナをもらうことを目的としてしまったり、どこのアーサナまで終わらせることがステータスのようになってしまったり、はたまた世界中から練習生が集まるインド・マイソールではどれだけ早くオーソライズド(正式指導資格)されるかを競うような人もいるくらい。 でも、新しいアーサナが欲しいと言うのが悪いわけでもないし、オーソライズドを取得したいと思うことだってなに一つ悪いことではない。 同じ目的でも、理由は様々。 アーサナ欲はきっと自分の体の理解を深めるだろうし、オーソライズドにより、多くの人に正しい知識を伝えることも可能となるだろう。 これまた学ぶものの姿勢次第。 資格、修了証、アーサナ。 そして師もしかり。 僕はなにも持っていないけれど、唯一、人に自分のヨーガの源を説明するときには、プロフィールにも載せている、Rolf&Marciの名前を出す。 僕は今ここインドで教えを受けているRolfとMarciのことを心から自分の師だと仰いでいる。…